複製技術時代の芸術
2006 / 08 / 26 ( Sat )
![]() | 複製技術時代の芸術 ヴァルター ベンヤミン (1999/11) 晶文社 この商品の詳細を見る |
石版、写真などの複製技術は、それもオリジナルに対して高度の独立性を持つ複製を大量にすばやく市場に送り出すことを可能にした。こうした量的な変化は、芸術作品の受容の質的変化を生み出した。
「いま」「ここに」しかないという「ほんもの」の芸術が有していたアウラは消滅し、芸術の礼拝的価値が失われた。また展示の可能性が高まることによって、芸術はこれまでとは異なった様々な機能を持つようになった。
また、映画は絵画や演劇とは比較にならないほど正確な状況描写力を持っており、はるかに大きな分析可能性をつくりだして人間に知覚の深化をもたらした。
映画は、礼拝的価値をよせつけず、いかなる精神の集中も必要としない。観客は、散漫な試験官の態度となる。過去の芸術たは違い、映画は多くの大衆を一度に動員することができる。
僕がこの本にあるベンヤミンによる文書の中でもっともおもしろいと思うのは、テクノロジーの発達によって人間の知覚が深化するという部分です。人間の知覚は、自然による制約の他に、社会的・歴史的な制約を受ける。複製技術による芸術作品は、礼拝的な価値を退け、正確な状況描写が可能になる事で、大衆は物事をより科学的に捉える事ができるようになる。
マルクス・レーニン主義の文化論
2006 / 08 / 18 ( Fri )
蔵原 惟人 (1966/03)
新日本出版社
文化の発生
人類の文化は、労働の生産力に余剰が生まれたとき、模倣のための模倣、単なる遊戯として始まったのではなく、人間が厳しい自然の中で生活するためのたたかいの中からうまれてきた。労働に対する共通の知識を得、さらに認識を深めるためのものであった。芸術・科学・宗教などが未分化の状態で、生産的労働を軸に統一されていた。「芸術をふくむ人類の文化は、人間に先天的にそなわったなんらかの本能によって自然に生まれたのではなくて、マルクスやエンゲルスがいっているように、人間の社会的な生産労働―人間が自然を支配しようとするたたかいの中で、徐々につくりだされたものであるということがいえると思います。」
階級社会と文化
「原始共同体社会では文化はすべての人びとによってつくられ、すべての人びとがそれを利用し、それを享受することができたのですが、階級社会では文化の成果の大部分が特定の階級に独占されるだけでく、文化そのものが階級的性格をもち、それが人民を支配する道具に利用されるようになります。」
「すべての文化は、それが支配階級のための文化であっても、つねに人民大衆の労働の上に築かれるものです。したがって私たちは、それらの文化をただ機械的に批判するのではなくて、それを批判にかけ、そのすぐれた遺産はこれを正しく受けつぎ発展させてゆかなければなりません。そうすることによって人類の文化は前進していくのです。」
経済的土台と上部構造
ある社会ある時代の哲学、芸術、宗教といった社会的な思想や文化は、国家、政治、法律などの機関や制度や組織と同様に上部構造であり、究極的には経済的土台の歴史的な変化によって規定される。しかし、同時にその政治や文化はたがいに影響をおよぼしあうだけでなく、それはまた反対に経済的土台に反作用をおよぼし、経済の発展をたすけたり、おくらせたりする。経済状態のみが能動的で、他のものは受動的でしかないという事ではなく、究極においてつねに自己を貫徹する経済的必然性の基礎の上での交互作用である。
絵画論を超えて
2006 / 08 / 18 ( Fri )
![]() | 絵画論を超えて 尾崎 信一郎 (1999/05) 東信堂 この商品の詳細を見る |
バーネット・ニューマンの絵画が持つ時間性について
「この画面に直面する時、観者は横長という画面の構造的秩序に従って視線を走らそうと試みる。しかし同時に患者はそこに一切の視線の方向性と連続性の根拠が失われていることを知る。方向性と連続性を持たない時間は瞬間として体験されるしかない。この時、巨大な画面から見る者の上に振り下ろされるジップは一瞬のイヴェントとしての絵画の時間性をさらに強める。私はこのようなニューマンにおける絵画の時間性をあらためて瞬間性と呼ぶことにしたい。つまりニューマンの絵画はいかなる形にせよ、画面内に分節化された時間を内在させないからである。」
「いかなる時間的な秩序にも組み込まれることのないこのような瞬間の体験こそが、ニューマンが崇高と呼んだ絵画の新しい主題ではないだろうか。つまり、ニューマンの圧倒的な色彩に近接した距離から直面する際に私たちを満たすいかなる図像学的な認識をも超えた圧倒的な存在感、いかなる物語にも置き換えられることのない時間こそが自己実現された崇高の姿なのである。」
(「時間としての絵画」)
ミニマル・アートの意義について
「フリードはフォーマリズムの立場からミニマル・アートを批判した有名な論文の中でミニマル・アートをいわば演劇の一種として捉えた。彼によればモダニズム芸術に連なるアンソニー・カロやノーランドの作品はあらゆる瞬間に自身を全的に表明する点で非時間的であるのに対してミニマル・アートにおいて作品の体験は持続としての時間性を有すという。…むしろ時間性の積極的な導入によって作品のモノ化というフォーマリズム隘路を回避した点にこそミニマル・アートの意義は見出されるのではないだろうか。」
(「形態から生成へ」)
モダニズムの美術の時間性についての記述が非常におもしろい。モダニズムの絵画は、絵画内容による時間の表現ではなく、形式そのものの中に時間を構造化する。
マグダラのマリア
2006 / 08 / 12 ( Sat )
![]() | マグダラのマリア―エロスとアガペーの聖女 岡田 温司 (2005/01) 中央公論新社 この商品の詳細を見る |
本書によると、そもそもマグダラのマリアは、新約聖書の4福音書でキリストの磔、埋葬、復活の各場面に登場し、ここでは、回心した娼婦というイメージはどこにも出てきません。13世紀、ドミニコ会修道士ウォラギネの著書『黄金伝説』のなかの「マグダラの聖女マリア」伝によって、類まれなる美貌と富、回心した娼婦、30年間の陰修士としての生活などの多様な側面を持つマグダラ像は完成されました。
僕は、こうした経過でマグダラ像が変化していくのは、もともとは古代ローマ帝国の末期にユダヤ人などの被抑圧民衆の中で発生したキリスト教が、やがて権力と結びついていく過程と関係があるのではないかと思いました。
本書には、「この混成的なマグダラ像の加工は、別の側面から見るならば、彼女の名前とともに女性に与えられていた使徒としての権利を、罪人としての地位に置き換え、主の復活の第一証人として伝道者であったという重要な役割を、むしろ決定的に葬り去ってしまおうとする、教会側の戦略であった。」という記述がありますが、こういった側面などをみると、権力と教会が結びつき、様々なテクストを組み合わせ支配階級に都合のいいようにマグダラのマリアを加工していったのではないかと思います。
20世紀美術
2006 / 08 / 09 ( Wed )
![]() | 20世紀美術 宇佐美 圭司 (1994/05) 岩波書店 この商品の詳細を見る |
「美術の二〇世紀は、還元的情熱が燃え上がった時代であった。」
還元的情熱によって運動を続けていた美術が、アメリカ現代絵画(抽象表現主義)に至って、「無味乾燥」なものになってしまっている(エントロピーの増大)。「還元的情熱とは、元へ戻ろうとする情熱だから,むしろエントロピーを下げるような力なのではなかったか。それがいつのまにか逆にエントロピーが増大して不活性に到りつくようなことになったのであろう。」
「私はその最大の原因は、「進化」あるいは「進歩」といった考え方を、社会的要請として美術の世界に取り込み、インターナショナルな価値の文脈をつくったことにあると思う。それがニューヨーク派の誕生であった。」「近代絵画における還元的情熱は、文明の進歩や、進化という方向に、人間の表現力の名によって根本的に反省的機運をもたらした。しかるに二〇世紀を代表するアメリカ現代美術は、はたしてその文化の力を継承したものであったであろうか。答えは否定的にならざるを得ない。アメリカ抽象表現主義は、抽象表現という運動の先端部分をさらに前に進め、その「新しさ」をヨーロッパからの名誉ある独立と考えた。」「「進歩」概念は修正されねばならないだろう。」
著者は、抽象表現主義からミニマルアート、アースワークへと至る戦後アメリカ美術のメインストリームを「出口なしの状態」と批判する。
グリーンバーグ批評選集
2006 / 08 / 09 ( Wed )
![]() | グリーンバーグ批評選集 クレメント グリーンバーグ (2005/04) 勁草書房 この商品の詳細を見る |
クレメント・グリーンバーグ(Clement Greenberg 1909-1994)は、フォーマリズムという方法によって「モダニズム美術」を実定的に規定し、20世紀美術の核心を形成したアメリカの美術批評家。
絵画芸術は「モダニズムの下で自らを批判し限定づけていく過程で最も基本的なものとして残ったのは、支持体に不可避の平面性を強調することであった。」
「再現つまり図解することそれ自体が、絵画芸術の独自性を減ずるのはない。…三次元性は彫刻の本分であり、絵画はそれ自身の自律性のために、何よりも彫刻と分かち持っているかもしれないものは全て取り除かなければならなかった。そして、絵画が自らを抽象的なものにしていったのは、これをおこなうための努力の過程において」であった。
「モダニズムの絵画が自己の立場を見定めた平面性とは、決して全くの平面になることではあり得ない。…古大家たちは、人がその中へと歩いて入っていく自分自身を想像し得るような空間のイリュージョンを作り出したが、一方モダニストが作り出すイリュージョンは、人がその中を覗き見ることしかできない、つまり眼によってのみ通過することができるような空間のイリュージョンなのである。」
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